生まれた家

大阪の下町、生まれてから4才ぐらいまで住んでいた家
家の各部屋は体育館のように広く、その部屋に秘密基地を作って
あそんでました

家の前の道はその先が行き止まりになっていたので、車は一切通らず、
運動場のように広かったので、走り回ったり、道路に落書きしたりして
あそんでました

高校生のときにその場所を訪れることがあり、愕然としました
「狭いっ!!」
全ては自分の体が小さかったから感じていた感覚。

家はもう無かったけれど、とても体育館が建てられる程の敷地ではなかったし、
道も車が一台通れるぐらいのはばしかありませんでした

現実と想い出のサイズギャップ
でも、想い出の風景は書き換えられることなく、いまでも広いまま。

五島列島 福江島

「好きで好きでしょうがない」っていう感覚を覚えた場所

海に囲まれた小さな島で
知らない小学校に潜入して鉄棒したこと
たくさんお喋りして、音楽を聴きながら星空を見上げたり
潮のにおいがする中で波の音を聞きながらボーっとしたり・・・
何もかもが新鮮で感動を覚えてました
時間が止まってたカンジです

夏になるといつも思い出します。

岐阜県大和町徳永・旧内ヶ島家

こころに強く残るおもいでの場所で僕は、たいがいいつも1人でいる。
祖父は僕を愛していたけれど、果たして僕は彼の愛に報いていたろうか。
その日も僕は、永遠に続くかのような夏休みのけだるい午後を、今はもう取り壊されてなくなってしまった母親の実家の、どこか薄暗い場所で寝そべってすごしていたと思う。
普段ならなんでも僕のいうことを聞いてくれる祖母も叔母も、何故か出かけていて、家の中は静まりかえっている。
隅々まで赤裸々に、電灯の光のもとに照らし出されてしまうような、現在の内ヶ島邸と比べ、当時のこの家には、何年も日の光を浴びていないような、暗くてひんやりと冷たい場所がいくつもあった。
そして僕は、そのような暗闇に対して、畏怖とともに、不思議な安心感を覚えるような、そんなこどもだった。
まだ結婚していなかった叔母は、週に1回の華道教室の師範の傍ら、長い黒髪の少女の人形を作るのを趣味としていた。読書が好きで、部屋にはいつもなんだかわからないがたくさんの本が置いてあった。彼女の部屋のレコードプレーヤーで、子供向け雑誌の付録についていたソノシートを、繰り返し演奏したことを強く覚えている。

そして祖父が帰ってくる。
この歳の子供には高価すぎるお土産を持って。
無邪気に喜ぶ僕の傍らで、そのような一方的な愛情に戸惑う僕がいなかったとはいえない。

小学校へ入るまでの人生の大半を、そして学校に上がってからの全ての長期休みの大半を、僕はこの家で過ごした。しあわせな体験であったと思う。

おそらく、あの薄暗闇が、僕の原風景であり、ルーツであろうと思う。

703号

今住んでいる部屋
いろいろな人達が来た
古くからの友人から新しい友達、
そしてここで友達になったり
愛した人、愛してくれた人がいた部屋。
徹夜でがんばったり、夕方まで寝たり
牛乳こぼしたり、ガラスが割れたり。」
明日もここからはじめよう

実家の自分の部屋

思い出してみたら、結構ありましたが
その中でも一番好きな思い出(空気?)の場所は
高校3年生のときに過ごした自分の部屋です

日が当たらない、年中じめじめした部屋でしたが
ここで一生懸命勉強し、悩み、遊んで青春時代を過ごしました
特に受験直前は、緊張しながら、楽しみながらがんばってたなあ
今までで一番勉強した一年間。これだけははっきり言える

今は父の部屋(物置)になっていて、
帰ってその部屋に入っても、全く何も感じません(実家なのに)
本当に思い出だけですね

小学校の通学路

目の前に小学校があったにもかかわらず、
我が家と隣の家にはちょうど学区の境目があり、
私は45分(小学生低学年の徒歩で計算)もかけて学校へ通っていました。
その通学路といったら、まさに山あり、谷あり、鉄橋あり。
初めて蛇を踏んづけたのも、私有地の森に入り込んで木イチゴを食べたのも、
草スキーをしたのも、防空壕の後で肝試しをしたのも、この通学路です。

鉄橋の下に通っていた線路の上では、図書館で借りた本を読むのが日課でした。
私が小学校へ通うずっと前から、本来の機能を失っていた線路。
あのでこぼこ加減が、当時の私のおしりにはちょうど良かった。
座って日が暮れるまで本を読んでは、母が心配してしばしば迎えに来てくれました。

まっすぐオウチに帰れない私の習性を培ったのはまさにこの通学路です。
私の大事なオモイデの場所です。

昔の家のベランダ

そこには使えなくなったロッキングチェアーが一脚。
ゴミにも出せずに放置されていた。
小さい頃、私は決まって天気の良い日にその場所で
産まれてくるはずだったお姉ちゃんと待ち合わせをした。
「お姉ちゃんはお空の上にいるんだよ」という母の言葉を信じ込み、
ロッキングチェアーの上で体育座りをして雲の隙間を一生懸命探していた。
それはかくれんぼのようで私はとても楽しかった。
私が見つけられなくても、お姉ちゃんはきっと私のことを見つけているに違いないと思い、
その時その時、覚えたての歌をお姉ちゃんに歌ってみせた。

今思えば決して眺めの良かった場所ではない。
けれど、上しか見ていなかった私はそこから見える真っ青な空の色、真っ白な雲の色が
とてもキレイだったように記憶している。

牛舎

父の実家が酪農やってて、正月とお盆に帰るたんびに、あの臭くもない、かといって素敵とは呼べないドクトクなニオイが私を苦しめてて、幼かった自分を思い出します。今は懐かしいニオイです。昨日行ったら、もっと愛らしいニオイになってました。

ニオイだけじゃないんですね、牛の目も昔はすっごい怖かったです。動きはスローだけど、しっかり私を睨みつけて・・・しかも10頭くらいが。でも彼らはつながれてるから私の方が勝ってました。睨み返してやりました。

それと、昔は一頭一頭に名前が付いてたんです 笑 その中でも強烈だったのが
イサヤマ・モンロー
だったかな?幼いながらにマリリン・モンローを頭に思い浮かべてましたね。

今は牛乳をギュ-、ニューって絞ってやりたい、その位カワイイと思えるまでになりました。

通学路

毎日、同じメンバーで通学してたあの道。一面に米の時期は稲穂が、麦の時期は黄金色の麦畑が広がり波うち、一角には大きな蓮の花も咲いた。その先には電車が通っていて小さな踏切があった。

今でもあのときの空の色を思い出す。

制服で見上げた、燃えるような夕焼け、真夏の入道雲、真昼に浮かぶ白い月、凍るように寒い日の星達、日ごと形を変える月。このイメージを絵に描きたいと何度も思った。

そんな空の下、毎日のように何処かに寄り道して遅くまでいくら話しても解決しないことについて延々と語り合ったセブンの裏とかTUTAYAの裏とかも・・懐かしいなぁ。制服だからできたよなぁ・・と今思う。

防波堤

釣りの足場になったり、海への飛び込み台になったり、初日の出を眺める展望台になったり。

「海」じゃないんですよ、「防波堤」じゃないとダメなんですよね。