岐阜県大和町徳永・旧内ヶ島家

こころに強く残るおもいでの場所で僕は、たいがいいつも1人でいる。
祖父は僕を愛していたけれど、果たして僕は彼の愛に報いていたろうか。
その日も僕は、永遠に続くかのような夏休みのけだるい午後を、今はもう取り壊されてなくなってしまった母親の実家の、どこか薄暗い場所で寝そべってすごしていたと思う。
普段ならなんでも僕のいうことを聞いてくれる祖母も叔母も、何故か出かけていて、家の中は静まりかえっている。
隅々まで赤裸々に、電灯の光のもとに照らし出されてしまうような、現在の内ヶ島邸と比べ、当時のこの家には、何年も日の光を浴びていないような、暗くてひんやりと冷たい場所がいくつもあった。
そして僕は、そのような暗闇に対して、畏怖とともに、不思議な安心感を覚えるような、そんなこどもだった。
まだ結婚していなかった叔母は、週に1回の華道教室の師範の傍ら、長い黒髪の少女の人形を作るのを趣味としていた。読書が好きで、部屋にはいつもなんだかわからないがたくさんの本が置いてあった。彼女の部屋のレコードプレーヤーで、子供向け雑誌の付録についていたソノシートを、繰り返し演奏したことを強く覚えている。

そして祖父が帰ってくる。
この歳の子供には高価すぎるお土産を持って。
無邪気に喜ぶ僕の傍らで、そのような一方的な愛情に戸惑う僕がいなかったとはいえない。

小学校へ入るまでの人生の大半を、そして学校に上がってからの全ての長期休みの大半を、僕はこの家で過ごした。しあわせな体験であったと思う。

おそらく、あの薄暗闇が、僕の原風景であり、ルーツであろうと思う。

703号

今住んでいる部屋
いろいろな人達が来た
古くからの友人から新しい友達、
そしてここで友達になったり
愛した人、愛してくれた人がいた部屋。
徹夜でがんばったり、夕方まで寝たり
牛乳こぼしたり、ガラスが割れたり。」
明日もここからはじめよう

実家の自分の部屋

思い出してみたら、結構ありましたが
その中でも一番好きな思い出(空気?)の場所は
高校3年生のときに過ごした自分の部屋です

日が当たらない、年中じめじめした部屋でしたが
ここで一生懸命勉強し、悩み、遊んで青春時代を過ごしました
特に受験直前は、緊張しながら、楽しみながらがんばってたなあ
今までで一番勉強した一年間。これだけははっきり言える

今は父の部屋(物置)になっていて、
帰ってその部屋に入っても、全く何も感じません(実家なのに)
本当に思い出だけですね

小学校の通学路

目の前に小学校があったにもかかわらず、
我が家と隣の家にはちょうど学区の境目があり、
私は45分(小学生低学年の徒歩で計算)もかけて学校へ通っていました。
その通学路といったら、まさに山あり、谷あり、鉄橋あり。
初めて蛇を踏んづけたのも、私有地の森に入り込んで木イチゴを食べたのも、
草スキーをしたのも、防空壕の後で肝試しをしたのも、この通学路です。

鉄橋の下に通っていた線路の上では、図書館で借りた本を読むのが日課でした。
私が小学校へ通うずっと前から、本来の機能を失っていた線路。
あのでこぼこ加減が、当時の私のおしりにはちょうど良かった。
座って日が暮れるまで本を読んでは、母が心配してしばしば迎えに来てくれました。

まっすぐオウチに帰れない私の習性を培ったのはまさにこの通学路です。
私の大事なオモイデの場所です。

昔の家のベランダ

そこには使えなくなったロッキングチェアーが一脚。
ゴミにも出せずに放置されていた。
小さい頃、私は決まって天気の良い日にその場所で
産まれてくるはずだったお姉ちゃんと待ち合わせをした。
「お姉ちゃんはお空の上にいるんだよ」という母の言葉を信じ込み、
ロッキングチェアーの上で体育座りをして雲の隙間を一生懸命探していた。
それはかくれんぼのようで私はとても楽しかった。
私が見つけられなくても、お姉ちゃんはきっと私のことを見つけているに違いないと思い、
その時その時、覚えたての歌をお姉ちゃんに歌ってみせた。

今思えば決して眺めの良かった場所ではない。
けれど、上しか見ていなかった私はそこから見える真っ青な空の色、真っ白な雲の色が
とてもキレイだったように記憶している。

牛舎

父の実家が酪農やってて、正月とお盆に帰るたんびに、あの臭くもない、かといって素敵とは呼べないドクトクなニオイが私を苦しめてて、幼かった自分を思い出します。今は懐かしいニオイです。昨日行ったら、もっと愛らしいニオイになってました。

ニオイだけじゃないんですね、牛の目も昔はすっごい怖かったです。動きはスローだけど、しっかり私を睨みつけて・・・しかも10頭くらいが。でも彼らはつながれてるから私の方が勝ってました。睨み返してやりました。

それと、昔は一頭一頭に名前が付いてたんです 笑 その中でも強烈だったのが
イサヤマ・モンロー
だったかな?幼いながらにマリリン・モンローを頭に思い浮かべてましたね。

今は牛乳をギュ-、ニューって絞ってやりたい、その位カワイイと思えるまでになりました。

通学路

毎日、同じメンバーで通学してたあの道。一面に米の時期は稲穂が、麦の時期は黄金色の麦畑が広がり波うち、一角には大きな蓮の花も咲いた。その先には電車が通っていて小さな踏切があった。

今でもあのときの空の色を思い出す。

制服で見上げた、燃えるような夕焼け、真夏の入道雲、真昼に浮かぶ白い月、凍るように寒い日の星達、日ごと形を変える月。このイメージを絵に描きたいと何度も思った。

そんな空の下、毎日のように何処かに寄り道して遅くまでいくら話しても解決しないことについて延々と語り合ったセブンの裏とかTUTAYAの裏とかも・・懐かしいなぁ。制服だからできたよなぁ・・と今思う。

防波堤

釣りの足場になったり、海への飛び込み台になったり、初日の出を眺める展望台になったり。

「海」じゃないんですよ、「防波堤」じゃないとダメなんですよね。

ジャン=リュック・ゴダールの撮るパリ

思い出について話すとき、人は3つのケースに分かれる。個人的な体験を話すことも あるし、個人的な体験と時代=歴史と関連づけて話すこともある。また、内的現実に 軸足を置いて話すこともある。ここで私は、主に内的現実を軸として思い出の風景に ついて話そうと思う。それは実を言うと、現実を写し取った場所でありながら、現実 には存在しない場所なのだが。

父が国家公務員だった私は、幼い頃から10回を超える引っ越しを繰り返してきた。長くて4年、短いときには数ヶ月。父の赴任先についてまわった私は、意識的にその土地に思い入れをせず、思い出を忘れるようにしてきた。それは、いつでも次の土地に移れるよう、心の準備をする手間を省くための、私なりの合理的な手法であった。したがって、私が暮らしてきた土地はすべて仮住まいの地であり、したがって人並みに思い出の場所と呼べるような土地は皆無である。

16の時から、私は画家の弟子となりデッサンを習い始めた。高校に通いながら週に一度先生の家に通い、学校では殆ど誰とも口をきかず、ひたすら白いケント紙に木立や雲、自分の手やガラス器、果物など目に飛び込む様々なものすべてのあるがままを、鉛筆一本で写し取っていた。幼い頃から、私は何かを作り上げる仕事に就くことを予感していたが、それが現実味を帯びてきたのはその頃である。
大学ではグラフィックデザインを専攻したが、古色蒼然という言葉を通り越した、役に立たないさび付いた知識と、それを振りかざす教授たちの権威主義的な立ち居振る舞いに辟易した。悪化する鬱病に悩まされ、学校をさぼりがちになった私を奮い立たせたのは、ファッションと映画であった。
特に川久保玲のコム デ ギャルソンの創造性には大いに感化され、ギャルソンのショップスタッフとして過ごした約2年の間、そのクリエイションの成果を目の当たりにして戦慄に近い感動を間近に感じた。

また、ビデオ屋や映画館に通い、単館系を中心にかたっぱしから映画を見たが、中でも私を魅了したのは、ジャン=リュック・ゴダールの映画である。彼の作品は、観ているときは勿論、見終わった後も自律的な思索を促するような感じがした。また、音の使い方が刺激的で、そのうえ画が圧倒的に美しい。彼が撮るパリの街は、たまらなく愛しく感じた。

特に私がゴダールの作品で気に入っているのは、「右側に気をつけろ」と「愛の世紀」である。前者はゴダール自身が主役を務め、何らかの咎で有罪の判決を下された「侯爵」あるいは「白痴」と呼ばれる男が、無罪を得るためには「映画を完成させ、上映する」しかないことを告げられ、フィルムを携えパリに向かう男の道中と、フランスのポップ・グループ「リタ・ミツコ」が曲を作る過程をリンクさせた内容で、難解ではあるものの、高揚感を感じる映画である。
一方、「愛の世紀」であるが、争いと憎しみに満ちた世界を変えてゆくには、ひとりひとりが「大人になること」であると考え、「愛」をテーマに、恋愛だけではなく、広義の「愛」の様々な局面を表現したいと考える映画作家エドガーの苦渋に満ちた葛藤と迷走の話である。こちらは、「右側に気をつけろ」とは違った、しっとりとした美しさを備えたゴダール渾身の作品だ。

どちらも共通しているのは、「ものを作る映画」であるという点と、パリが舞台であるという点である。その風景は言葉を失うほど美しく愛情に満ちている。私は、実際のパリはどうでもいいが、ゴダールの撮るパリに行きたい。ああいう街を撮る監督は、もうゴダールしかいなくなってしまった。

私は今、アートディレクターとして物作りに携わっているが、ゴダールの撮るパリは、私の物作りの原風景である。
今も目を閉じれば、街灯と車のヘッドライトに浮かぶ、夕闇の迫る美しい夜景が、あるいはベンチで新聞を広げる紳士の佇む風景が、エドガーが思索に耽りながらアパルトマンから見下ろしたパリの町並みが現れる。実際の土地にはひとかけらの懐かしさすら感じない私が、唯一大事に思っている場所、そして、私にとって創造の象徴とも言える美しい風景。それが「ジャン=リュック・ゴダールの撮るパリ」だ。それは、決して到達し得ない虚構の中の街であり、どこよりも美しいクリエイションのふるさとである。

門司港駅から関門トンネル方面への道すがら。又は、ロマンチック街道。

18~21歳ぐらいの頃によく歩いた歩道。
今は結婚してしまった友だちと2人で、よく恋の悩みやなんかに浸りながら帰った。
埋め込まれた小さな小さな硝子のかけらが街灯で光る歩道や、雨に濡れてこれまた光るアスファルトや、街灯に照らされる街路樹のシルエットが、ますます二人をロマンチックにさせ、そして癒してくれた。
それから、わたしは満月を見るといろいろ願いごとをしたし、彼女は星に向かってお祈りをした。
叶うか叶わないかは半信半疑であっても、それは二人にとってはとても大事なことだった。

そして、わたしの願いは叶った。

今は、結婚し少し年取った分、ナンパや痴漢が怖かったり、めんどくさかったり、また暑かったり寒かったりであまり歩かなくなってしまった。
そんな今でも、たまに歩くとあの頃のことをあの頃の気持ちのまま思い出す。
それから、最近思い付きでこっそりと、でも強く祈リ続けていたら、なんとまた叶っちゃったの!