2年7組窓際後ろから2番目

高校2年。
特別仲の良いクラスではなかった。
仲の悪いクラスでもなかった。
きっと、所謂「団結力」とかそういうものがなかっただけ。
そこで過ごした1年間に、恋しく思う時間がある。

定期試験前になると、部活が休みになった。
私はいつも、教室に残って勉強した。
同じように残っていたのが他に5人。
男子も女子もいた。
そういえば、別のクラスの子も混ざってた。
私は自分の席に座る。
みんなは好きな場所に座る。
だけどなんとなく、教室の後ろの方が好きだった。

隣のクラスから、わいわいと賑やかな声がずっと響いていた。
でも、私たちの教室は静かだった。
ただひたすらに、それぞれの勉強をしていた。
その静かさが、心地よかった。

完全下校30分前。
誰かが伸びをする。席を立つ。誰かに質問をする。
それが合図。
全員ペンを置いて、お菓子を食べながらおしゃべりが始まる。
テストや勉強の話から、昨日見たテレビの話、家族の話。
どうでもいい話ばかりだった。
チャイムが鳴ったら、そこでおしまい。

数ヶ月に1週間だけあったあの時間。
静けさとおしゃべりを、今も時々思い出す。

おばあちゃんの家とその周辺

幼い頃はよくおばあちゃんの家に行き、遊んでもらっていた。
今でもお正月やお盆には家族でおばあちゃんの家に行く。
車で1時間程かけて行くので、当時の私にとってはとても遠いところだった。

私を毛布の上に乗せて引っ張りながら部屋中を走り回っていたおばあちゃんは、本当に元気だったと思う。
夕方には草花を摘みながら田んぼ道を散歩し、川に行くこともあった。
銜えて吹くと音がするぴゅーぴゅー草を教えてくれたが、私は上手く吹けなかった。

母が迎えに来ても帰りたくなかった私は、かくれんぼをしようと言い出して一生懸命隠れた。

泊まりがけで夜中にお腹が空いたらラーメンを作ってくれ、私が悪いことをしたらびしっと叱ってくれた。

おばあちゃんとの思い出は数え切れないほどたくさんある。
今も続くおばあちゃんとの日々は、私にとって大切な思い出だ。

1両目1番前

午前5時35分
まだ眠気まなこの私は親にせかされながら家を出る

今では考えられない高校3年間の私の習慣

40分にいつも通り着く列車
利用客も少ない田舎の列車だから、昼間や夜は2両編成。でもこの時間ばかりは長く長く連なっている

1両目の1番前
4人がけの席の窓側にいつも通り座っている彼女

「おはよう」
と言って私も彼女の前に座る。

「やばい。予習終わってないんだよね」
なんて言いながら黒い学生カバンを机代わりに教材を開く

朝ごはんを食べ損ねてもぐもぐしている日
昨日の寝不足からうとうとしている日
大きな声でおしゃべりしすぎて恥ずかしい思いをした日
夢中で英文を暗記した日

毎日毎日めまぐるしくすぎていく

海岸線沿いを通る通学だったので
のぼる朝日を見るのが好きだった
「今日も天気がいいな」と思うだけで気分が晴れた

そんな私の毎日を支えてくれたあの席は
今は誰かのいつもの席なのでしょうか

小学校、中学校と、丘の上にあり、同じ海が目の前に広がっていました。時々授業中に漁港の生臭い匂いが漂って来るけれど、晴れの日など海面がきらきら光ってとっても綺麗な景色でした。休み時間や掃除時間など、窓辺で海を眺めながら語り合ったりしました。学校から見るその海の景色が大好きだったけれど、卒業してからずっと見れていません。次帰省したら、懐かしい友達と学校に遊びに行ってみようかな。

おじいちゃんとおばあちゃんち

私が小学生くらいのころまで、
長期休暇の度に母方の祖父母宅に泊まりに行っていた。

広くて不思議なものだらけの祖父母宅は、
当時の私と、同い年の従姉と、3つ下の弟にとっては遊園地みたいな場所だった。

祖父母宅リビングには、壁に沿うようにコーナーソファが置かれていた。
そのソファの角部分は丸く作られていて、壁との間にわずかなデッドスペースがあった。
私たち子ども組はいつも、その小さなスペースに入り込んで遊んでいた。
そのスペースに特に名前はなかった。秘密基地とか言っておけばいいものの、
私たちも大人たちも「あそこ」とか「ここ」とか適当に呼んでいた気がする。

狭い場所に入りたくなるのは本能なのだろう、
いつもネコかハムスターよろしく3人で押し合いへし合いしながら「そこ」で遊んでいた。
だいたい、チラシをひたすらちぎったり、謎の運動会を開催したりと、
全然生産性のない遊びに夢中になっていた。

双子の母と叔母が過ごしていた部屋でピアノを弾いたり、
ギターや百科事典といったものがひしめく
宝物箱のような叔父の部屋で、いろいろ物色するのも好きだった。
あまりに私たちが遊ぶので、ほどなくしてそれらの部屋には立ち入り禁止となってしまった。

帰宅するときには、庭にあった砂利でいつまでも遊んで大人たちを困らせていた。
祖父母宅の砂利は、消しゴム大の大きさで、白、黒、灰など色んな色があった。
表面はすべすべとしていて、少し冷たい。
形は卵のようで、当時流行っていたたまごっちの絵を油性ペンで描いて大喜びしていた。

今では、もう当時の「おじいちゃんとおばあちゃんち」という感覚を失ってしまった。
成長するにすれ、いつしか祖父母宅に泊まることはなくなってしまった。
「あそこ」もすっかり狭くなっていて、最早ただのスペースになってしまっていた。
背もだんだん伸びてきて、足元の砂利たちも目に入らなくなってしまった。

私たちが大きくなるにつれて、大人たちは年老いていく。
泊まりに行くたびにご馳走を振る舞ってくれた祖母も、
今では体調を崩して憔悴しきってしまい、私たちが遊びに来ることすら負担になるようだ。
叔母が、「私たちも年を取っていくけど、お父さんとお母さんは1年に2歳も3歳も老いていっている気がする」
とつぶやくように言っていたのが印象的だった。
もう座ることすらままならない祖母の姿が、彼女にそっくりな双子と重なりそうだった。

祖父母宅は、物理的には20年前と全く変わっていない。
ただ、私たちが「あそこ」のスペースを
意味のある余白だと思う感性を失ってしまっただけなのだ。

家の側の公園

以前アパートの1階に住んでいて、自分の部屋からベランダに出ると目の前が公園だった。子どもが多い地域だったこともあり、いつも遊んでいる子どもたちの声が聞こえてきた。私も小さい頃はよく遊んだ。遊具は多くないが、広い公園だったので色んな遊びができた。私のお気に入りは砂場で、友達と飽きもせずアリを集めて遊んだ。地域のお祭りも、夏休みのラジオ体操もこの公園で行われた。子どもたちが遊ぶのに夢中になって帰るのが遅くならないように、うちの母がベランダに見やすい時計をぶら下げていた。のど乾いたからお茶ちょうだい、ボールがベランダに入っちゃったから取らせて、けがしたから消毒させて、と子どもたちが家に訪ねてくることもあった。中学生になると公園で遊ぶこともなくなり、子どもたちと関わることもなくなった。部屋で勉強していると、子どもたちが楽しそうに遊ぶ声が聞こえてきて微笑ましかった。日当りの良い部屋だったので天気の良い日はカーテンを開けて網戸にして過ごした。平和な公園の風景がとても好きだった。今は福岡市に引っ越したので、10年以上側で過ごしてきたあの公園がとても懐かしい。

2年7組窓際後ろから2番目

高校2年。
特別仲の良いクラスではなかった。
仲の悪いクラスでもなかった。
きっと、所謂「団結力」とかそういうものがなかっただけ。
そこで過ごした1年間に、恋しく思う時間がある。

定期試験前になると、部活が休みになった。
私はいつも、教室に残って勉強した。
同じように残っていたのが他に5人。
男子も女子もいた。
そういえば、別のクラスの子も混ざってた。
私は自分の席に座る。
みんなは好きな場所に座る。
だけどなんとなく、教室の後ろの方が好きだった。

隣のクラスから、わいわいと賑やかな声がずっと響いていた。
でも、私たちの教室は静かだった。
ただひたすらに、それぞれの勉強をしていた。
その静かさが、心地よかった。

完全下校30分前。
誰かが伸びをする。席を立つ。誰かに質問をする。
それが合図。
全員ペンを置いて、お菓子を食べながらおしゃべりが始まる。
テストや勉強の話から、昨日見たテレビの話、家族の話。
どうでもいい話ばかりだった。
チャイムが鳴ったら、そこでおしまい。

数ヶ月に1週間だけあったあの時間。
静けさとおしゃべりを、今も時々思い出す。

学校帰りの小さな公園

高校時代、初めての彼氏ができました。
帰り道は逆なのに、いつも一緒に帰ってくれる
優しい彼でした。
学校帰りの小さな公園のベンチに座り
なんでもないことを話しながら
笑いあうのが本当に幸せでした。

なんで別れちゃったんだろう。

鹿川渓谷キャンプ場

小さい頃、家族で何度も訪れたキャンプ場です。
その日も休みを利用して家族みんなでキャンプに来ていました。
着く少し前ぐらいから雨が降り出していて、テントを張ろうにも外はザーザー。
父は少々短気なところがあり、イライラ。
車の中は沈黙と重い雰囲気。
とにかく父の機嫌がなおってほしい。
私は後部座席で皆に見えないように手を組んで「神様、雨をとめてください」と祈っていました。
すると数分後、見事に雨はパッタリ。
晴れて明るい日差しが差し込み、父はテントを張るうちにご機嫌に戻っていました。
私が神様の存在を信じた瞬間でした。
いま思えば、変わりやすい山の天気。
あまりにも単純で、純粋な、幼いころの想い出です。
私も将来は、テント一式をパジェロの後ろに積んで、家族みんなでキャンプに行くのです。
お母さんの立場で、お父さんの機嫌をうかがいながら。

実家の近所

小学生にとって夏休みはパラダイスだ
とりわけ僕にとっては夏の早朝が一番の楽しみだった

毎朝6時に起き、服を着替え、むしかご片手に弟と家を出る
いつものポイントに行き、僕が木を一回、二回、と蹴ってみる
近くの草むらにボトッと何か落ちる音がした
弟がそのあたりをごそごそと探す

「見つけた!!」と弟が言うと僕も急いでそばによって覗き込む
そこには黒に近い暗い茶色の宝石が一匹

それを僕は自慢げにむしかごに入れる
それから僕たちは意気揚々とラジオ体操へと向かう

実家近くの公園

実家の近くにある公園はみんなに「上の公園」と呼ばれていた。もちろん「上の」とつく以上、「下の公園」もあったのだが「上の公園」で遊ぶことが多かった。そちらの方が家から近かったこともあるし、野球やサッカーなどで遊ぶときに遊具や木の場所を利用しての塁やゴールを定めやすかったこともあるだろう。小学生の間ずっと集団登校をしていた私にとっては、そこは朝の集合場所としての機能も持ち合わせていた。そこで遊んでいたのは私を含め近所の子供たちだが、学年などは関係なかった。そこにいるみんなで遊ぶ、そんな場所だった。
そこで私たちは毎日遊んだ。示し合わせたわけではないのに誰かが必ずそこにいた。サッカーや野球、ドッヂボールをすることもあれば缶けりやけいどろ、木登りをしていたこともある。ブランコを使っての靴飛ばしはみんな燃えた。
公園の中にはいろいろな木や花もあった。春には山桜がソメイヨシノより少し早く花を咲かせ、柔らかい緑が目に優しい。夏には春よりも濃い色となった葉が強い日差しを遮り、クチナシの甘い香りが広がる。秋にはケヤキの葉がみごとなグラデーションを見せ、銀杏は黄色の葉を落とし、ドングリが地面に転がる。冬には椿が鮮やかな赤を見せてくれる。他にも常緑樹はあったし花壇にも花があった。
決して広くはない公園だ。だがそこに私の子ども時代のほぼすべてがある。昔と違って子どもの数が減ってしまい、子どもが遊んでいる様子を見ることはあまりなくなってしまった。あの公園を見るたびにそれを寂しく感じながら、幼かった頃の自分と友人たちのことを思い出すのだ。