今の場所

いつ頃からか、今が懐かしくなった。
惚れた女の鼻歌が台所から聞こえたとき
窓の向こうのありふれた午後のありふれた光を眺めたとき
観葉植物の葉が一枚はらりと落ちたとき
それらの瞬間が目の前から消え去るということ。
おびただしい思い出のすべては、いつも今いる場所から生まれてきた。
そうやってこの今もまた、ある日あるとき
意志とは無関係に不意打ちのように追憶されるのだろうと思うと
今がむやみに懐かしい。

あっぷるハウス

クーラーのない安アパート。

友達が来るけど、暑さに耐えきれず、帰ってしまう。
時間を持て余した僕は、一人で自分の写真を撮った。

あのころすでに、自分好き。
いつまでたっても自分好き。

岡田宮→どんど焼き・・・とか。

幼いコロ。
岡田宮は、神聖な場所であるにもかかわらず、
ふだんは、コドモにとっては、オトナにじゃまされないステキな空間でした。
まちなかなのに、緑に囲まれてて、土曜の午後は、よく遊び場になりました。

小学生にあがるコロには、
御神木の「銀杏の木」の廻りを補助輪をつけた自転車の練習。
丁寧に砂利がしきつめられていたので、ひざ小僧はかわいそうだったなぁ。

お宮さんなので、年中行事がいろいろありますが、

七五三の写真が残ってます。もちろん千歳飴を握りしめてます。

それから、1月11日(だったと思う。)
お正月のしめ飾りを焼く、「どんど焼き」は、特に盛上りました。
景品が当るのです。黒崎の商店街の色々な品々が。
商店街のおいちゃん達に、囲まれながら、
とにかくワクワクドキドキで、もちを焼いたり、ぜんざいを食べたりして
とても重要な1日でした。

幼きとき

オモイデの場所をなるべく最近で思い出そうとしたけどいまいちピンと来ませんでした。僕にとって一番のオモイデは記憶の端っこの古いオモイデなんだろうなと思います。幼いころの自分の視線で覚えている場所。アパートのコンクリの下を誰かと走ってるなー。いつだろなー。どこだろなー

駐車場

小学生の時、友達2,3人と家の駐車場でよく遊んだ。

大人にとっては、ただ車を止める場所だけど
小学生にとっては遊ぶのに格好の場所。

サッカーしたり、鬼ごっこしたり、なわとびもしたかな。
あと、意味もなくぐるぐる回ったり。

ボール遊びをしていると必ず起こるアクシデント!
ボールが駐車場の塀を越えた…
他人の家に入ってしまった。
塀を越えてとりに行く。

すごくどきどきした。

何もかもすべてがおもしろかった。
小学生ってすごい。

マイ ホームタウン

匂いの記憶

数年ぶりに嗅いだ日に当たった稲の香ばしい匂いと田焼きした後の燻った煙の匂い。むせる程の。

幼い頃から毎年嗅いで来た、ココロの棲む場所の匂い。

かけっこについていけなくて泣きながら歩いた土手沿いの道。
日に何度も着替える位、夢中になった川での水浴び。
寝っころがって夜空を見上げ知ってる星を探しては得意げになっていた幾つもの夜。
いつも傍に在った掌。声。
それから、
それから、
あのとき皆で誓ったこと。
歩き出したあのとき。

愛されたり
裏切ったり
泣かせたり
許されたり
愛しているけど
傷付けたり
傷付けたり

愛されていたり。

今違う場所で抱くものは

あなたとの

あなたとの
あなたとの

BCE PLACE

誰もが足早に行き交うオフィス街。
ようやく慣れた言語が空を飛ぶ。
真新しい背の高いビルたちの間に
吹き抜けのように広がった中庭で
私はいつも寝転んでいた。
太陽が真上から差し込んで
旋回する風とで空気を浄化していった。

ネクタイもしない
化粧もしない
昨日と同じTシャツで
わたしは日々皿を洗い
休み時間に毎日そこで天を仰ぐ。

ホットドック売りに目をやって
腹をグゥと鳴らせながら。

「明日はどっちだ」

私は間違いなく生きていた。

5m。

通っていた大学の正門。
そこから少し中に入ったところに彼女。
そしてもう5mのところに自分。

お別れだった。浅い意味でも深い意味でも。
傘から勢い良く飛び出したはずなのに振り返ってしまい、
ひとつもそこから動いていない彼女が見えた。
そして、鮮明に読みとれた彼女の口の動き。
声がなかった分、集中できたのかも知れない。

読みとれたのに戻れなかった5m。
近くもなく、遠くもない場所だったから。

天国の扉、スパニッシュ・ハーレム

偉人や友人や先人によく叱責を受けた。
怠慢を得手としていたのだ。
怠慢が怠慢としてそのまま生き続けたスパニッシュ・ハーレム。
懐かしさを感じさせる尊き場所は残念ながら思いあたらないが、
近しさを感じずにいられぬ然るべき場所はある。
そこは路地裏の奥に潜む蔓に囲まれたスパニッシュ・ハーレムの教会だった。
最後まで神に拝むことも抗うこともなかったがそこで確固たる感情が芽生えた。
私情が込み入りすぎて、バカらしくなるほど。

オモイデの場所とはいわば生涯辿り着けない天国かもしれない。
時はふり返ることを許してくれるが、引き返すことを許してはくれない。
その辛辣さも甘さも愛すべきものなのだ。

しかしここで難儀な神のイタズラに遭遇する。
天国への道は、先ず死なぬことには拓かれない。

世知辛く度し難いこの世こそ、オモイデの極地にちがいない。

今の場所

いつ頃からか、今が懐かしくなった。
惚れた女の鼻歌が台所から聞こえたとき
窓の向こうのありふれた午後のありふれた光を眺めたとき
観葉植物の葉が一枚はらりと落ちたとき
それらの瞬間が目の前から消え去るということ。
おびただしい思い出のすべては、いつも今いる場所から生まれてきた。
そうやってこの今もまた、ある日あるとき
意志とは無関係に不意打ちのように追憶されるのだろうと思うと
今がむやみに懐かしい。

信愛幼稚園

幼い頃の記憶が濃い。

初めて家に妹が来たとき。
産湯につかった時のこと。
状況を鮮明に、気持ちを鮮やかに覚えてる。

幼稚園は特別な場所だった。
初めて体験する社会。
それは不安そのもので冒険心の固まりだったと思う。
そんな社会が存在する私の幼稚園は、
ほのぼのと。。というよりも、クールな装いだった。
広大な敷地に建てられた修道院に併設された幼稚園で、
うっそうと繁る大きな森。その中を滑る長く曲がりくねった滑り台。
まるで宝探しのように、森の中にはキリストの教えが書かれた木の札が立っていた。
小さいとき、それが意味するものが何か分からなかったけれど、
なんだか触れちゃいけない神聖なものは感じてた。
至る所にそれはある、人生の哀しみと強さ。

先日、20数年ぶりに幼稚園を訪れました。
震災で幼稚園はつぶれ、老人支援施設になっていたけれど、
森や修道院はあの時のまま。
あの頃に感じとられた感覚と今も何も変わっていなくて、
私の全てのルーツはここにある、と確認しました。