おじいちゃんと住んだあの家

高校2年の3月、突然引っ越すことになった。
おじいちゃんが末期がんになったのだ。
おばあちゃんも3年ほど前に亡くなっていて、おじいちゃんは1人で暮らしていた。

おじいちゃんの家のお風呂は薪で沸かしていた。
毎日学校から帰ると、おじいちゃんから火の付け方、薪のくべ方を教えてもらった。
2つ下の弟は上手に出来るのに、私はいつまでたっても出来ないまま。
おじいちゃんはいつでもニコニコ笑って教えてくれた。
がんが進行して、弟を父と間違えるようになっても、痛みで起き上がるのが苦になってもニコニコ教えてくれた。

半年経っておじいちゃんが死んで、私達は引っ越した。
おじいちゃんの笑顔をあのお風呂のそばに置いたまま。

母の立つキッチン

幼かった頃、キッチンの床の隅に座って夕飯を作っている母とお話をするのが大好きだった。仕事帰りで母は疲れているのに私は手伝いもせず、床に座りながら母を見上げ今日あった嬉しかったこと楽しかったことの出来事をずっと話していた。母はどんなに疲れていても私の話を笑顔で聞いてくれたのがとても嬉しかった。私はこの時間が大好きだった。ご飯が出来上がるころになるとまだお皿に盛られていないご飯をつまみ食いしては、話続けていた。

私が大きくなると母は「お話をしながらお手伝いをしてくれると早くご飯ができるのにな~」と言うようになった。それでもキッチンの隅は私のお話をする場所だった。
今でも実家に帰ったらキッチンの隅は私が母とお話をする場所。

部室

高校2年のとき、すごく嫌なことがあった。
それが原因で食欲がなくなり、
半年で5㎏痩せた。
学校、特に部活に行きたくなかった。
朝ご飯を食べた後吐いたこともあった。

高校生活を振り返ると真っ先に
このことを思い出す。

でも、ちゃんと振り返ったら、
それ以上に楽しいことが
たくさん出てくる。

夜遅くまで練習したこと。
同級生で真剣に議論をしたこと。
初めて九州大会に出たこと。
部員みんなでフェリーに乗ったこと。
いつだってそばにいて、
私が苦しんでることに気付いてくれた友人たち。

最高の結果で終われたこと。

しんどくなったら高校2年を思い出す。
自分1人じゃない、乗り越えられるって思える。

美術館、病室

母が生きていた頃、母に誘われて、よく美術館に行った。何もしゃべらず、二人でゆっくり館内を回った。無言だけど、その空気感がとても居心地がよかった。

母が入院してから、学校が終わるとまっすぐ病院に行く生活だった。二人きりの病室でも、僕は何か話すわけでもないし、母も特に何かを話そうとしなかった。僕は病室で黙々と宿題をしていた。
美術館と同じく、病室でも二人は無言だった。

母が亡くなってから、姉に教えてもらったことがある。
母は、あの無言の時間が好きだったと。あの二人だけの特別な時間が、とても居心地がよかったと。

母は、父や姉とは美術館に行くことはなかった。
母は美術館だけでなく、僕と過ごす時間も楽しみにしていたのかもしれない。
母がいなくなった今、母を思い出すときはいつも、あの美術館と病室を思い出す。二人だけの、あの静かな時間は大切な宝物。

mail box

妹の生き方について
彼女は時々私に相談する。
恋愛相談、家族との関係、
高校受験や部活選択、、
いつも感じるのは彼女は
無意識に
私の生き方と比較していること。
その度に自分が姉であることを
ちょっぴし苦しく思う。
自分の好きなようにすればいいんだよ
というと
ほっとする私の妹。
私がおねえちゃんでよかったという
私の大好きな妹。
このやりとりは
私が実家を離れて会えないから
全てメールでのやりとり。
いつまでも心に残しておきたい
おもいで
おもいでとして取り残したくない
おもいで
です^^

校庭の大きな土管

小学校の校庭にあった四角形の大きな土管。当時非常にはやっていたケイドロのときに「刑務所」にしていて、懐かしい場所です。ひんやりした土管の中は何だか居心地のいい場所でした。

おばあちゃんちの前の道路

たしかわたしが小学校3年生くらいのとき。

おばあちゃんちは星がとても綺麗に見える田舎町の山のてっぺんにあった。

お盆で親戚みんながおばあちゃんちに集った夜。
その夜はちょうど、なんとか流星群が何年かに一度来る日だった。

「前の道路でて、みんなで寝そべって見てみようか」

誰かの提案でみんなで外に出て、おっきなビニールシートを敷いて寝っころがった。
みんなで笑いあいながらずーっと空を見上げていた。
田舎だから車なんて来ないと思っていたら1台軽トラがやってきてびっくりした。
みんな慌てて起き上がって逃げた。

そのとき流れ星が見えたか、空がどんなに綺麗だったかはあんまり覚えていないけど、とってもどきどきわくわくした。

その胸の高鳴りが今でもキラキラした思い出として残っている。

小学校の理科室

小学校の理科室、ドアの鍵は職員室にあるのですが、なぜか廊下側の窓は鍵の閉め忘れがよくありました。友達二人でこっそり窓から忍び込んでは、黒板に落書きしたり、備品棚の引き出しを全部開けてみたり…見回りなんて来ないのにずっと声をひそめてお喋りしていたことを覚えています。グラウンドとは違った静かな空間が好きだったのかもしれません。二人だけの秘密だった、大切な思い出です。

中学校

成人式の同窓会の後、友人と思いつきで通っていた中学校に行くことになった。その友人はみな小学校からの仲で9年間もの付き合いがあった。私は高校進学時に県外に出たので一緒に彼らと過ごすことは卒業以来なかった。それから約5年間集まることがなかったため、深夜にも関わらず大騒ぎした。成人式を終えたばかりなのに派手に騒いだ。友人の中には既に働いている者もいる。その1人が「次はいつ集まれるかな」とポツリ。
大学生活も残り半分。友達と過ごす時間は無限にあるわけじゃない。だからこそ大事にしなければ、そう思わせてくれた中学校は大切な想い出の場所。

ミューラ

子ども達の集まる、”ミューラ”という文房具屋が近所にあった。色とりどりのペンや美味しそうな駄菓子、かっこいいプラモデルまで、子供心をくすぐるものがなんでも揃っていたように思う。僕らはよく、そこで遊びの待ち合わせをしたし、そこは町内の子ども達のオアシスのようだった。

「はい、100万円ね。」100円のお菓子を買うと、お店のおじちゃんは決まってそう冗談を言った。100万円のおじちゃんは笑顔が優しくて、緑のセーターのよく似合う人だった。

お店はなくなってしまったが、店内の埃っぽい空気や100万円のおじちゃんの優しい声、甘ったるいガムと練り消しの匂い、扉の軋み具合まで今でも覚えている。
中学生になって初めてそこが”ミューラ”ではなく”三浦商店”だったことを知ったが(”ミューラ”ではなく、”ミウラ”だったのだ!)、僕にとって今でもそこは”ミューラ”のままである。