ジャン=リュック・ゴダールの撮るパリ

思い出について話すとき、人は3つのケースに分かれる。個人的な体験を話すことも あるし、個人的な体験と時代=歴史と関連づけて話すこともある。また、内的現実に 軸足を置いて話すこともある。ここで私は、主に内的現実を軸として思い出の風景に ついて話そうと思う。それは実を言うと、現実を写し取った場所でありながら、現実 には存在しない場所なのだが。

父が国家公務員だった私は、幼い頃から10回を超える引っ越しを繰り返してきた。長くて4年、短いときには数ヶ月。父の赴任先についてまわった私は、意識的にその土地に思い入れをせず、思い出を忘れるようにしてきた。それは、いつでも次の土地に移れるよう、心の準備をする手間を省くための、私なりの合理的な手法であった。したがって、私が暮らしてきた土地はすべて仮住まいの地であり、したがって人並みに思い出の場所と呼べるような土地は皆無である。

16の時から、私は画家の弟子となりデッサンを習い始めた。高校に通いながら週に一度先生の家に通い、学校では殆ど誰とも口をきかず、ひたすら白いケント紙に木立や雲、自分の手やガラス器、果物など目に飛び込む様々なものすべてのあるがままを、鉛筆一本で写し取っていた。幼い頃から、私は何かを作り上げる仕事に就くことを予感していたが、それが現実味を帯びてきたのはその頃である。
大学ではグラフィックデザインを専攻したが、古色蒼然という言葉を通り越した、役に立たないさび付いた知識と、それを振りかざす教授たちの権威主義的な立ち居振る舞いに辟易した。悪化する鬱病に悩まされ、学校をさぼりがちになった私を奮い立たせたのは、ファッションと映画であった。
特に川久保玲のコム デ ギャルソンの創造性には大いに感化され、ギャルソンのショップスタッフとして過ごした約2年の間、そのクリエイションの成果を目の当たりにして戦慄に近い感動を間近に感じた。

また、ビデオ屋や映画館に通い、単館系を中心にかたっぱしから映画を見たが、中でも私を魅了したのは、ジャン=リュック・ゴダールの映画である。彼の作品は、観ているときは勿論、見終わった後も自律的な思索を促するような感じがした。また、音の使い方が刺激的で、そのうえ画が圧倒的に美しい。彼が撮るパリの街は、たまらなく愛しく感じた。

特に私がゴダールの作品で気に入っているのは、「右側に気をつけろ」と「愛の世紀」である。前者はゴダール自身が主役を務め、何らかの咎で有罪の判決を下された「侯爵」あるいは「白痴」と呼ばれる男が、無罪を得るためには「映画を完成させ、上映する」しかないことを告げられ、フィルムを携えパリに向かう男の道中と、フランスのポップ・グループ「リタ・ミツコ」が曲を作る過程をリンクさせた内容で、難解ではあるものの、高揚感を感じる映画である。
一方、「愛の世紀」であるが、争いと憎しみに満ちた世界を変えてゆくには、ひとりひとりが「大人になること」であると考え、「愛」をテーマに、恋愛だけではなく、広義の「愛」の様々な局面を表現したいと考える映画作家エドガーの苦渋に満ちた葛藤と迷走の話である。こちらは、「右側に気をつけろ」とは違った、しっとりとした美しさを備えたゴダール渾身の作品だ。

どちらも共通しているのは、「ものを作る映画」であるという点と、パリが舞台であるという点である。その風景は言葉を失うほど美しく愛情に満ちている。私は、実際のパリはどうでもいいが、ゴダールの撮るパリに行きたい。ああいう街を撮る監督は、もうゴダールしかいなくなってしまった。

私は今、アートディレクターとして物作りに携わっているが、ゴダールの撮るパリは、私の物作りの原風景である。
今も目を閉じれば、街灯と車のヘッドライトに浮かぶ、夕闇の迫る美しい夜景が、あるいはベンチで新聞を広げる紳士の佇む風景が、エドガーが思索に耽りながらアパルトマンから見下ろしたパリの町並みが現れる。実際の土地にはひとかけらの懐かしさすら感じない私が、唯一大事に思っている場所、そして、私にとって創造の象徴とも言える美しい風景。それが「ジャン=リュック・ゴダールの撮るパリ」だ。それは、決して到達し得ない虚構の中の街であり、どこよりも美しいクリエイションのふるさとである。

二段ベット

幼稚園の二年間。押入れを改造して兄と上下に入って寝ていた。
もちろんあたしは上。

夜中に大きな音。両親がこども部屋のふすまを開けギシギシとやってくる。
きまってあたしは床に転げ落ちている。
それでもしつこく眠ろうとしているので、そのまま抱き上げられ上の段に戻された。

1年間だけ住んだ、今にも倒れそうな小さな木造の平屋。
また引っ越しすることになったけど、ベットは持っていけなかった。

神 戸

思い出・・・にしては、すごーく最近なのですが、
この夏、連れと二人で行った神戸、です。

私たち的には、まるでパリでした。
建築家の安藤忠雄が、「神戸はパリをこえた」とおっしゃったそうですが、
私もまったくそのとおりだと、感じております。

素敵なカフェや変なオブジェとか、街中の車の路駐ぐあいとか、
福岡とはひと味ちがう風が、つまりパリの風がふいていたのでした。

注:ちなみに、パリは行ったことありません。

マレーシアのとある丘

「場所」というのとはちょっと違うのかもしれないけど(「場所」よりもっと面的なんだけど)
今のところ一番印象的なのは「夕焼けを見たマレーシアの丘」。
3年前の夏に、マレーシアであった学会(みたいの)のツアーで、
確か、「マラッカ海峡に沈む夕日を見て、マレーシア料理を味わい、蛍を見る」
というメニューだったと思う。それは、ちょっと前に駅で人身事故を見てしまい、
見たというか、その被害者(女の子)が一番最後に接触したのが自分だったことで、
なんとなく責任を感じてしまったり、なんで飛び込んだんだろうとか、
本当に自殺だったんだろうかとか、いろいろと想うことがあったときで。

スコールの後に出た虹が灯台にかかっているのが見えて、その風景を背中に、
久しぶりに夕焼けの始まりから終わりまでを見て。
その夕焼けの情景は、写真に撮っても撮りきれないと思えちゃうほどで。
そのときに、その彼女はやっぱり自ら飛び込んだんだなぁと思えて、
こんな夕焼けを見ることも放棄しちゃったんだなぁ、やっぱり自分から死んじゃうって
いけないことだし、第一もったいないなぁ、なんて想って、泣けるくらい感激した。

その灯台のあった丘の正確な位置も地名も地形も、単に「マレーシアのどこか」と
しか覚えていないけど、「場所」といわれて一番思いつくのはあの風景、だなぁ。

生まれた家

大阪の下町、生まれてから4才ぐらいまで住んでいた家
家の各部屋は体育館のように広く、その部屋に秘密基地を作って
あそんでました

家の前の道はその先が行き止まりになっていたので、車は一切通らず、
運動場のように広かったので、走り回ったり、道路に落書きしたりして
あそんでました

高校生のときにその場所を訪れることがあり、愕然としました
「狭いっ!!」
全ては自分の体が小さかったから感じていた感覚。

家はもう無かったけれど、とても体育館が建てられる程の敷地ではなかったし、
道も車が一台通れるぐらいのはばしかありませんでした

現実と想い出のサイズギャップ
でも、想い出の風景は書き換えられることなく、いまでも広いまま。

五島列島 福江島

「好きで好きでしょうがない」っていう感覚を覚えた場所

海に囲まれた小さな島で
知らない小学校に潜入して鉄棒したこと
たくさんお喋りして、音楽を聴きながら星空を見上げたり
潮のにおいがする中で波の音を聞きながらボーっとしたり・・・
何もかもが新鮮で感動を覚えてました
時間が止まってたカンジです

夏になるといつも思い出します。

岐阜県大和町徳永・旧内ヶ島家

こころに強く残るおもいでの場所で僕は、たいがいいつも1人でいる。
祖父は僕を愛していたけれど、果たして僕は彼の愛に報いていたろうか。
その日も僕は、永遠に続くかのような夏休みのけだるい午後を、今はもう取り壊されてなくなってしまった母親の実家の、どこか薄暗い場所で寝そべってすごしていたと思う。
普段ならなんでも僕のいうことを聞いてくれる祖母も叔母も、何故か出かけていて、家の中は静まりかえっている。
隅々まで赤裸々に、電灯の光のもとに照らし出されてしまうような、現在の内ヶ島邸と比べ、当時のこの家には、何年も日の光を浴びていないような、暗くてひんやりと冷たい場所がいくつもあった。
そして僕は、そのような暗闇に対して、畏怖とともに、不思議な安心感を覚えるような、そんなこどもだった。
まだ結婚していなかった叔母は、週に1回の華道教室の師範の傍ら、長い黒髪の少女の人形を作るのを趣味としていた。読書が好きで、部屋にはいつもなんだかわからないがたくさんの本が置いてあった。彼女の部屋のレコードプレーヤーで、子供向け雑誌の付録についていたソノシートを、繰り返し演奏したことを強く覚えている。

そして祖父が帰ってくる。
この歳の子供には高価すぎるお土産を持って。
無邪気に喜ぶ僕の傍らで、そのような一方的な愛情に戸惑う僕がいなかったとはいえない。

小学校へ入るまでの人生の大半を、そして学校に上がってからの全ての長期休みの大半を、僕はこの家で過ごした。しあわせな体験であったと思う。

おそらく、あの薄暗闇が、僕の原風景であり、ルーツであろうと思う。

703号

今住んでいる部屋
いろいろな人達が来た
古くからの友人から新しい友達、
そしてここで友達になったり
愛した人、愛してくれた人がいた部屋。
徹夜でがんばったり、夕方まで寝たり
牛乳こぼしたり、ガラスが割れたり。」
明日もここからはじめよう

実家の自分の部屋

思い出してみたら、結構ありましたが
その中でも一番好きな思い出(空気?)の場所は
高校3年生のときに過ごした自分の部屋です

日が当たらない、年中じめじめした部屋でしたが
ここで一生懸命勉強し、悩み、遊んで青春時代を過ごしました
特に受験直前は、緊張しながら、楽しみながらがんばってたなあ
今までで一番勉強した一年間。これだけははっきり言える

今は父の部屋(物置)になっていて、
帰ってその部屋に入っても、全く何も感じません(実家なのに)
本当に思い出だけですね

小学校の通学路

目の前に小学校があったにもかかわらず、
我が家と隣の家にはちょうど学区の境目があり、
私は45分(小学生低学年の徒歩で計算)もかけて学校へ通っていました。
その通学路といったら、まさに山あり、谷あり、鉄橋あり。
初めて蛇を踏んづけたのも、私有地の森に入り込んで木イチゴを食べたのも、
草スキーをしたのも、防空壕の後で肝試しをしたのも、この通学路です。

鉄橋の下に通っていた線路の上では、図書館で借りた本を読むのが日課でした。
私が小学校へ通うずっと前から、本来の機能を失っていた線路。
あのでこぼこ加減が、当時の私のおしりにはちょうど良かった。
座って日が暮れるまで本を読んでは、母が心配してしばしば迎えに来てくれました。

まっすぐオウチに帰れない私の習性を培ったのはまさにこの通学路です。
私の大事なオモイデの場所です。

昔の家のベランダ

そこには使えなくなったロッキングチェアーが一脚。
ゴミにも出せずに放置されていた。
小さい頃、私は決まって天気の良い日にその場所で
産まれてくるはずだったお姉ちゃんと待ち合わせをした。
「お姉ちゃんはお空の上にいるんだよ」という母の言葉を信じ込み、
ロッキングチェアーの上で体育座りをして雲の隙間を一生懸命探していた。
それはかくれんぼのようで私はとても楽しかった。
私が見つけられなくても、お姉ちゃんはきっと私のことを見つけているに違いないと思い、
その時その時、覚えたての歌をお姉ちゃんに歌ってみせた。

今思えば決して眺めの良かった場所ではない。
けれど、上しか見ていなかった私はそこから見える真っ青な空の色、真っ白な雲の色が
とてもキレイだったように記憶している。